最近、よく耳にする言葉に「多様性(ダイバーシティ)」があります。
その代表例としてよく引き合いに出されるのが、ラグビー日本代表です。
様々な国籍やルーツを持つ選手たちが、桜のジャージーを着て日本代表として一丸となって戦う姿。
確かに、一見すると「多様性の理想形」に見えます。
しかし、私はそこに少しの違和感を覚えています。
その違和感の正体を、「最初」と「選択」という2つのキーワードで紐解いてみます。
「最初」にあるのは何か?
一般的に多様性とは、異なる属性の人々が「共存している状態」を指します。
つまり「共存」が最初にあります。
では、ラグビー日本代表はどうでしょうか?
彼らが集まった理由は、共存するためではありません。
「日本を代表して戦い、勝つこと」が最初にある目的です。
勝利という明確な目的のために、日本のラグビーチームで活躍する人(5年以上の居住で代表になれる)で、チームを作って結果たまたま多様な顔ぶれになった。
「たまたま集まったら多様な集団だった」と、「目的のために集まった結果、多様になった集団」。
この差は、実はとてつもなく大きいのです。
「選択」に伴う責任
もう一つの観点は、自らの意志で「選択したかどうか」です。
私たち日本人の多くは、日本国籍を選択したわけではなく、たまたま持っています。
一方で、ラグビー日本代表の外国籍選手たちは、自らの意志で「日本代表になる道」を選択しています。
一度日本代表を選べば、一部の例外を除き他国の代表にはなれません。
その重い「選択」をしているからこそ、彼らにはそのコミュニティ(日本チーム)のルールや文化を尊重し、自分を合わせていく責任が生じます。
彼らは日本の規律に従い、日本の文化を学び、チームの勝利に献身します。
また、試合前の国家斉唱で選手が声を上げて歌う姿はラグビー日本代表だけかもしれません。
代表合宿は宮崎でおこなうのですが、「さざれ石」の現物を全員で見に行くことを含めて、歌詞の意味を学ぶ時間があるそうです。
多様性の「核心」にある問題
多様性とは、単にバラバラな人が集まることだとは私は思っていません。
ラグビー日本代表のように、多様なバックグラウンドを持つ個々人が、「日本代表」という一つの枠組みに対する責任を、自ら選択して背負っています。
今の社会で語られる多様性の議論には、この「選択に伴う責任(コミュニティへの適応)」という視点が欠けているように感じます。
「郷に入っては郷に従う」という覚悟を持って選択した人と、そうでない人が混在する中で、どう共通のルールを守るのか。
ラグビー日本代表を「多様性の成功例」と呼ぶのなら、その裏にある強烈な「目的意識」と「個人の選択責任」もセットで語るべきではないでしょうか。
